イクミは大学生の時、その後の人生を大きく変える出会いをした。といっても、出会い方自体は決して特別なものではない。しかし、高校での苦い三年間のお
かげで、ますます心を閉ざしたイクミにとって、彼との出会いは正に救いとなった。彼の名前はケン、イクミを人生で最も幸せにした男。そしてもう一人、生ま
れて初めての友達ミスズ。
イクミのとても幸せだった時。
大学近くの喫茶店
イクミが大学生になって二ヶ月が過ぎ、季節は梅雨となった。皆このジメジメとした時期が早く過ぎ、暑い夏を待ち望んでいる中、イクミだけは人通りの少な
い梅雨がずっと続く事を願いつつ、店内の窓から強くも弱くもない、微妙な雨が降る道路を見つめていた。
イクミ「…」
大学に入学してから一週間後、イクミはこの喫茶店を発見した。大学から三分という距離でありながら、学生が来店することは全然ない。というか、客自体がほ
とんどいなかった。
店長「イクミちゃんやぃ、今日はもぅ客来ねぇだろぅから、上がっちゃっていぃよ〜」
店長はコーヒーを煎れるよりも料理が得意、だが一番自信があるのは茶碗拭きという六十八歳の老人男性だった。
イクミ「いえ…まだ、もう少しダメですか?」
1ヶ月前にイクミは店長に勧められ、この喫茶店でアルバイトを始めた。授業の合間にいつも一人で店内に居るイクミに、店長は興味を持ったのだ。イクミに
とって、生まれて初めての接客するアルバイトだった。
店長「そっかぃ、それじゃあコーヒーでも煎れてやろぅ、座ってなイクミちゃん」
イクミ「あ…、すいません…」
イクミ、カウンター席に着く。
…ザアァァァ…。
イクミ「…」
店長「雨ぇ、強くなってぇきたねぇ」
イクミ「…ですね」
この空を覆う雨雲は私だ。と、イクミは思った。
たとえ雨を降らさなくても、ただあるだけで気分を落ち込ませ、陰鬱で、暗い…。雨や湿気は私が放つ負のオーラ。
その時、窓の向こうで傘を差さずに走り抜ける数人の若者を見付けた。たぶんイクミと同じ大学の学生だろう、何かのサークル仲間達だろうか、みんな楽しそ
うにはしゃいでいた。…こんなものだ、憂鬱な雨雲も陰鬱な私も、その程度の存在なのだ。
店長「はい、イクミちゃんコーヒー入ったぃ」
イクミ「あっ、ありが…」
ガチャッカラカラ〜ン…。
イクミ・店長「!?」
客「あの〜、まだやってますか?」
客が来た!!それは梅雨入り以降ただの一人としてお客さんのこなかった店にとって、奇跡であった。その驚きは、数秒の間ふたりを固まらせた。
客「…あの?」
イクミ「い、いらっしゃいませ」
店長「…」
店長に関しては入れ歯がズレたことにも気付かずに立ち尽くしていた。
お客はイクミがさっきまで座っていた席の隣のカウンター席に座り、イクミにカフェラテを注文した。
客「…すごい雨ですねぇ」
イクミ「…、えっ、あっ…はぁ」
これがイクミの初めての客との会話になった。今までは基本的に客と会話するのは店長の役目だったが、その店長は今、客が来たことに驚き放心状態となっ
てしまっていた。
イクミ「ど、どうぞ」
イクミは緊張でガチガチになりながら、やっとの思いでカフェオレを客に出した。その時にイクミはふと、客の顔をチラリと見た。客はイクミと同い年くらい
の女の子だったが、彼女の服装はイクミと全然違っていた。化粧をし、髪をカラーし、オシャレな服を着ている、それは正に今時の女の子だった。
客「ありがと」
無愛想な店員のイクミに対し、この客はとても自然な愛想の良い笑顔で礼を言った。その笑顔を見たイクミは思う、この人は私の百倍は幸せな人生を歩んでい
るのだろうと。
三十分後、相変わらず曇ってはいたが、雨が止んだ為、客は帰って行った。帰り際、客はイクミに笑顔で言った。
客「ごちそうさま、またね」
イクミ「えっ…?あ、ありが…」
客の姿はもうなかった。
イクミ「…またね?」
その後、お店を出るために後片付けをしている時、イクミはさっきの客が誰かを思い出した。それは…
翌日、大学の教室。
「おはよー」
イクミ「…」
「ねぇっ、おはよってば」
イクミ「…」
「…カフェオレ」
イクミ「っ!?」
客「おはよ、昨日はどーもね」
イクミ「…おはよ…」
彼女は同じ大学の同級生だったのだ。
客「アタシはミスズってーの、よろしくね」
イクミ「…はぁ」
ミスズ「昨日はホント、超ぐーぜんだったね」
イクミ「…ですね」
ミスズ「イクミちゃんは、ずっとあそこでバイトしてんの?」
イクミ「ちゃん!?って、なんで名前…?」
ミスズ「ずーっと気になってたのよ、イクミちゃんのこと!やっと話せたねぇ」
イクミ「…」
ミスズはイクミが最も苦手なタイプの人間だった。今までにもミスズと同じように話しかけてくる人は何人かいた。イクミはそのたびに少しだけ辛い気持ちに
なる。緊張し、喉が詰まって何も話せなくなり、結局その人達は会話にいき詰まり、どこかへ行ってしまう。イクミはそれが嫌だった。しかし、このミスズとい
う女は、今までの人とは違っていた。まず彼女自身があまり友達がいないようだった、とゆうか、必要としていなかったのだ。
あれからミスズはよくイクミのバイト先に顔を出すようになった。
喫茶店。
ミスズ「いっくみぃーっ!来たよー!」
イクミ「…」
店長「おっ、ミスズちゃんじゃなぃ、いらっしゃ〜ぃ」
ミスズ「おっちゃ〜ん!こんちわ〜」
店長「もぅ、今日も可愛ぃねぇ〜」
ミスズ「やめてっ、誉められると本気なっちゃうから!」
だが、ミスズが来て喜んでいるのは明らかに店長の方だった。晴れでも空いてるのに、梅雨の雨で店内ガラガラで湿気がこもった喫茶店に客が、しかも若い女
子大生ともなれば、妻に先立たれた店長のテンションは上がりっぱなしであった。
ミスズ「ねぇそーいえばなんだけど、今度の学祭でやるクラスの出し物のミーティングってか、飲み会あるんだけどイクミは来る?」
イクミ「行かない」
ミスズ「そっ、まぁアタシも行かんし別にいーんだけどね」
イクミ「…」
なぜミスズがイクミに近付いて来ようとするのか、イクミは理解できずに戸惑っていた。というより、ミスズの存在そのものがイクミには不思議でならなかっ
たのだ。
それは、ミスズはかなり明るい性格だが、決して誰かと深く関わろうとはしなかったからだった。
もちろんミスズはイクミと違い、誰とでもすぐ打ち解けられるし、クラスでも皆の人気者である。しかし、彼女はどこかで周りとは一線を引いていた。ミスズ
の大学以外での行動と、実は周りと距離を置いていることを知っているのは、クラスでイクミだけだった。
そんなミスズが、何故かイクミに対しては明らかに特別だった。
最初イクミはただの自己満足で話し掛けてきているのだろうと思っていたが、それも何だか違うような気がしていた。というのも、イクミはそういう人は「私
は友達がいっぱいいて幸せだから、あの人にもその幸せを実感させてあげよう」と、考えている人か、寂しい人だと思っていたからだ。
しかし、それならば友達がいそうだがいないミスズはイクミと仲良くなる必要がなかった。もちろん寂しい感じでもない、イクミにとってミスズは正に未知の
存在であり、イクミはそんな彼女を近付きも突き放しもできずただ戸惑っていた。
ミスズ「あーっと、そーだ!飲み会なんてどーでもいーんだ。ねぇ梅雨も空けっから、水着買いいこ!」
イクミ「…水着?」
ミスズ「うん、なんかこぅ鼻血でちゃいそうなやつ、えっそんなサービスしちゃう!?みたいなやつ!」
イクミ「…」
ミスズ「あっ、…別にイクミはそんなサービスしなくていいんだよ。イクミの分アタシがサービスすっからって、別に誰にサービスしたいわけでも…何いってん
だアタシ…?」
イクミ「…いいよ、行こうよ今度」
ミスズ「オッケ、決まりだからね!」
戸惑いながらもイクミは確実にミスズによって変わりつつあった。何重にも重なり、グルグルに巻き付いて分厚くなったテープを、一枚一枚丁寧に剥がすよう
に、彼女はイクミの笑顔を少しずつ増やしていった。
店員 「もしも〜し、ちゃんと聞こえになれますか?」
イクミ「えっあっ…はい、もしもし」
店員 「はい、それではこちらがお客様の携帯電話になりますが、宜しいですね?」
イクミ「あっ、えっと…はい」
店員 「ありがとう御座いました〜」
イクミはミスズに言われ、遂に携帯電話を買った。ただそれだけと言えばそれだけの事だったが、イクミにとってそれは大冒険と言っても決して大袈裟になら
ないくらいにドキドキの出来事であった。雛鳥が初めて空に飛び出すような、胎児が母親の身体から離れ初めて自ら呼吸をした時のような、イクミは携帯電話を
持ったことでまるで自分が生まれ変わり、同時に世界も生まれ変わったような…いくら例えてもキリがない強烈な新鮮さを全身に感じた。
■■ To be continued. ■■