しんぢゅう


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST










  その一線を越えたなら
  君は一体何処へ行く
  その1センチは遠く
  遥か10000光年
  その1つ先へ
  残る一個の肉塊は
  その一生を終える









1.自殺志望と家出少年編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







 ある高いビルの上にイクミはいた。自殺するつもりなのだ。フェンスを越えて下を見る。その予想を遥かに超えるリアルな高さにぎょっとして足ががたがた震えだす。 お笑い芸人もびっくりなくらいのオーバーリアクションで…。このままだったらイクミは本当に飛び降りていたかもしれない。それくらい彼女は本気だった。 しかし、この屋上には先客がいた。それは家出少年のマト。彼は自殺志望ではなく、屋上で寝泊りしているのだ。マトがトイレに行こうとした時、二人は出会う。
マト 「ち、チョットちょっとぉ!何してんのあんた!」
 イクミ、声に驚いて落ちそうになる。
イクミ「何いきなり大声出してんのよ、死ぬとこだったじゃない!?」
マト 「す、すんません…ってか、死ぬつもりじゃなかったんかい!?」
イクミ「あ…、そーよそーよ悪い?あんたには関係ないでしょ!」
マト 「まぁそうなんだけど…って、これから自殺する人見掛けちゃって関係ないことないじゃんしょ!!」
イクミ「…それもそうね。ってゆーか、あなたこそこんな時間にこんな所で一体何してんのよ!?」
マト 「えぇっ、いやぁ、その…」。
イクミ「見た所、中学生くらい?」
マト 「十六だ、馬鹿にすんな!!」
イクミ「あっ、…やっ、別に馬鹿にするつもりじゃ…ってゆーか、十六でも駄目でしょ!家族は心配してないの!?」
マト 「うぉっ、謝られるどころか自殺しよーとしてるくせに、偉そうに説教しやがった…社会のルールに厳しいやつめ…つーか、そんなこと言うんなら自殺なんかすんなっつーの!!どっかの国じゃ自殺は立派な犯罪なんだからな!味噌ラーメンはご飯なんだからな!!」
イクミ「味噌ラーメンがご飯なのはデブヤの石塚でしょ!てゆーかどこかの国の犯罪なんて関係ないでしょ!!」
マト 「…そうだったここは日本だもんな。つーか日本の場合はどーなんだろーか…」。
イクミ「話は終わった?気が済んだらどっか行って欲しいんだけど。」
マト 「ち、チョット待って今考えるから…。」
イクミ、飛び降りようとする。
マト 「あっ、あーっとはいはーい、死ぬ前に聞いて!!」
イクミ「あーもう何よ?!手短にね。」
マト 「死ぬ前に少しだけ時間をくれ!」
イクミ「はぁ?時間だったら今十分にあげたでしょ。」
マト 「そ、そーじゃなくて一週間とか!いや三日とかでもいーや、その間にあんたを死ぬ気なんてなくなるくらいヒッピーにしてやるよ!!」
イクミ「…」。
マト 「…」。
イクミ「…ひっぴぃ?」
マト 「あ、やっごめん、ハッピーにしてやんよ!どぅ?」
イクミ「…別にいらない」
マト 「そーだよねぇ…大きなお世話だよねぇ。」
 イクミ、飛び降りようとする。
マト 「じ、冗談だよジョーク!!じゃーさじゃぁさぁ…」。
イクミ「あ〜もぅ、ホントにマジでウザイんだけど。」
マト 「俺も一緒に死ぬ。」
イクミ「はぁ!?なに、今あんたなんて言ったの?」
マト 「俺も一緒に死んでやんよ、一人で死ぬのはさすがに怖いっしょ。俺だったら寂しいもん。」
イクミ「あんた何言ってんのよ…。」
マト 「俺は別に死んだっていーよ。暇だしやることも無いし、もしかしたらこれが俺の死に時ってやつかもしんねぇし。」
イクミ「…まだ若いくせに死に時って…。」
マト 「うんまだ若いよ!これからやりたいこと見つかるかもしんないし、それでもしかしたらピッグになっちゃうかもだし!」
イクミ「ピッグ?」
マト 「あっ、いや豚じゃなくて大きいほう。」
イクミ「ビッグ?」
マト 「そうそっちのほう!と、とにかくだからさぁ、俺があんたの命預かるから、あんたが俺の命預かってよ!つーか預かれ!!っつーか預かったから!!」
イクミ「…そんな嘘ついてまで何で私を助けたいの。」
マト 「嘘じゃないし!言ったからには俺マジでやるからね。」
 マトがフェンスを越えイクミの隣にくる。
マト 「…」。
イクミ「…なに。」
マト 「コワッ!!」
イクミ「っ!?な、何どーしたの!?」
マト 「マジあんたこんな所に余裕ぶっこいて立ってたのかよ!!信じらんねえ!あんた馬鹿だろ!!」
イクミ「突き落としてやろーか…」。
マト 「うぅ…つ、突き落とせよぉ…」。
イクミ「はぁ?」
マト 「俺を突き落としてからあんたも落ちろ!どーだ本気だぞ!!」
イクミ「…」。
マト 「あっ、や…ちょっと待って心の準備を。」
イクミ「…優しいんだね。」
マト 「な、何がだよ。」
イクミ「自信はあるの?」
マト 「だ、だからなにがですかぁ!?」
イクミ「私をハッピーにする自信。」
マト 「あ、ありますともさ!!」
イクミ「わかった君を信じるよ。 わたしはイクミ、あなたは?」
マト 「ま、マトです。」
イクミ「宜しくねマトくん。」
マト 「お、オゥよ!」
 こうしてイクミは不思議な少年マトと出会った。
マト 「あ、あの〜何てゆーか腰が抜けちゃってフェンス越えられないんですが…。」
イクミ「そこから落ちればいいんじゃない?」
マト 「そ、そんなぁ〜。」
イクミ「安心して、私も後から落ちてあげるから。」





 イクミは三歳の時、親に捨てられ孤児になった。
 その日、親とデパートに行き、洋服から靴まで全て買ってもらい着せられた。フリフリのレースが付いたお嬢様が着るような可愛いらしいワンピースに、 ピカピカ光る赤い靴、イクミは嬉しくなりはしゃぎ回った。その後、大きな噴水のある公園へ行き、チョコレート味のソフトクリームを渡され「ここで少しの間待っててね」 と言われた。そのままイクミの母親が戻ることはなかった。深夜に見回りの警察官に保護されたイクミは、身を証明する物をなにも持たなかった。イクミは施設に行くこととなった。
 警察署でイクミが最後に言った言葉「あの公園に戻して、ママを待ってるから」。あの日のその言葉だけをイクミは今も覚えている。

 イクミのアパート。
イクミ「いい、今日は泊めてあげるけど、明日からは自分の家に帰りなさいよ」。
マト 「ハーイ」。
イクミ「後、変なことしたら追い出すからね」。
マト 「…はーい」。
イクミ「なに?今ちょっと間があったよねぇ!?」
マト 「な、ないって!ないない全然ない!!」
イクミ「…」。
マト 「な、何その目!?むしろ俺に変なことすんなよ!」
イクミ「やっぱり入れてあげない」。
マト 「じ、冗談だって、ちょっとー!!」


マト 「おっじゃまっしまーす!」
イクミ「適当にその辺でくつろいで」。
マト 「へぇ〜ここがイクミさんちかぁ〜、へぇ〜…うん」。
イクミ「へぇ〜…何?」
マト 「えっ?なにって…何?」
イクミ「後に続く言葉よ、今なにか言おうとして止めたでしょ!?」
マト 「な、何も言おうとしてないよ」。
イクミ「…そぅ、そっかゴメンねぇ部屋が汚くて」。
マト 「ち、違うって、その独身の女の人ってマンションとかに住んでるイメージあって…」。
イクミ「…ゴメンね、小さなアパートでオートロックじゃなくて床が畳で木造で…」。
マト 「…イクミさんって結構からむんだね」。
イクミ「…ごめん」。
マト 「…イクミさんって結構美人さんだよね」。
イクミ「ハァッ!?なっ、いきなり何言ってんのよ!!」
マト 「あっ照れた、いま照れたっしょ!?」
イクミ「ばっ…ばっかじゃないの!!」
マト 「へっへっへ」。
イクミ「な、何いきなり笑ってんのよ;」
マト 「楽しいな!」
イクミ「…全然」。
マト 「…;」
イクミ「麦茶とオレンジジュースと牛乳どれがいい?」
マト 「コーラ」。
イクミ「ない!」
マト 「じゃあオレンジ;」
イクミ「はい。所でさ、マト君って高校は行ってないの?」
マト 「んっ、ん〜うん、行ってないよ」。
イクミ「そっか…」。
マト 「何で?」
イクミ「何でって、なんとなくだけど」。
マト 「俺バカだからさ、まぁ別に高校なんか行きたかねーけど」。
イクミ「…私ね…」。
マト 「ん?」。
イクミ「私も高校行かなかったんだ」。
マト 「マジで!?へぇ〜意外、イクミさん頭良さそうなのに」。
イクミ「う、うん…」。

 イクミが育った孤児院はお世辞にも良い所とは言えなかった。毎日先生の罵声が飛び、誰かしら暴力を受けた。 それでもイクミは罵声と暴力には慣れる事が出来た。それよりも日曜日が悲しかった。親のいる子どもたちは日曜日になると迎えがきておでかけをする。 それ以外の子どもたちは孤児院で留守番をしなければならない。その孤児院で親のいない子どもはイクミだけだった。意外かもしれないが施設で暮らす親の居る子どもは多いのだ。 日曜になるとイクミは孤独感で圧し潰されそうになった。何をしていても涙がこぼれてきた。小さくガタガタ震えながら「ママ…ママ…」と繰り返し呟き続けた。 自分は孤独、誰も来てはくれない、その事実はイクミが成長するにつれ恐怖からマグマのようなドロドロとした怒りに変わっていった。










2.動物園編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







マト 「イクミさんって明日は仕事?」
イクミ「えっ、あっ明日?」
マト 「うん明日、土曜」。
イクミ「ど、土曜は休みよ、何で」。
マト 「んじゃあさぁ、明日どっか遊びに行かない」。
イクミ「はぁ!?何で私があんたと遊び行かなきゃなんないのよ!?」
マト 「何か予定あんの?」
イクミ「いや、べ、別にないけど…」。
マト 「んじゃあどっか行こうよ、ヨシ決定だな!イクミさん行きたいトコとか何かある?」
イクミ「…ない」。
マト 「うぇ〜、そんな行きたくないぃ〜?」
イクミ「…」。
マト 「…」。
イクミ「…どうぶつえん」。
マト 「んっ?」
イクミ「…何でもない」。
マト 「動物園か!」
イクミ「聞こえてるんじゃない!!」
マト 「そっか動物かぁ〜、イクミさんってばキリンさんが好きなんだ〜」。
イクミ「だ、誰がキリンが好きなんて言ったのよ!」
マト 「ゾウさんはもっと好きなの?」
イクミ「あんたそれが言いたかっただけでしょ」。
マト 「よしかわかった、動物園連れてってやんよ!楽しみだな!!」
イクミ「…そぉ」。
マト 「イルカに餌付けてきるかな」。
イクミ「それは無理ね」。
マト 「ゾウさんに…」。
イクミ「乗っちゃダメだからね」。
マト 「ミナゾウ…」
イクミ「それはセイウチ!!」

 小学校五年生の時、イクミは遠足で動物園に行く筈だった。しかし前日にイクミは39度の熱を出し、結局行くことはできず孤児院で皆の帰りを待った。 イクミは布団の中で歯をくいしばり泣きながら全てを憎んだ。何故親に連れて行ってもらったことのあるこは動物園に行けてわたしは行けないのだ。 何故わたしはこんな日に熱を出した。何故今日は雨が降らなかった。何故…。怨みの言葉は延々と続いた。最後、イクミはポツリと呟いた。「ママ迎えに来て」。 この日、イクミは待つことを止やめた。そして母の存在自体を忘れようと決めた。






 翌日。(一日目)
 動物園。
マト 「見て見てカバだカバ!くちでっけぇなぁイクミさん!」
イクミ「そうね」。
マト 「うおっペリカンだ!ペリカン急便だ!ペリカン宅急便だな!イクミさん!」
イクミ「そうね」。
マト 「ややっ鳩だ!鳩は放し飼いか!?放置プレーってやつか!野放しなんだなイクミさん!!」
イクミ「それは違うんじゃない」。
マト 「そうかっ!」
イクミ「そうね」。
マト 「な、何だありゃ?知らねぇ動物だぞ?」
イクミ「そうね」。
マト 「あーっ!ぞーさんだぁー!イクミさーん!大好きな象さんがいるよ!」
イクミ「誰が好きって言った!?」
マト 「ふう、イクミさん腹減んない?メシ食おうぜいっ!」
イクミ「…」
 食堂。
イクミ「…」
マト 「イクミさん?」
イクミ「ん、あっごめんマト君、何?」
マト 「何ってことないけど、ぼーっとしちゃって、疲れた?」
イクミ「えっ、あ〜うん、ちょっとね」
マト 「そっかー、まあ歩きっぱだったもんな」
イクミ「ねえ、一つだけ見てみたい動物がいるんだけど良いかな」
マト 「ん、象さん?」
イクミ「違う!」
マト 「へへへ…」
イクミ「何その笑い?」
マト 「イクミさん楽しいな!」
イクミ「…うん、そうだね楽しい」

 イクミはコンドルを見た事がない、実際にも図鑑でもない。しかしコンドルには他の鳥にはない何かがある気がしていた。 白鳥の様な美しさはないだろう、鷹の様な気高さはないだろう、しかし別の何か。その何かはイクミ自身の何かと似ているような気がしていた。 そして、その何かはマトにもある気がした。

マト 「コンドルかぁ〜、いいねぇ俺コンドルは好きだよ」
イクミ「マト君はコンドル見た事あるの?」
マト 「えっやっ、ないな、うんないない!でも路上で笛吹いてた外人のオッチャンがコンドルの曲をやってた」
イクミ「ふぅん、マト君はその曲が好きだったの?」
マト 「まあね、オッチャンは下手くそだったけど、何処の曲って言ってたっけなアルプス?」
イクミ「アンデスじゃない」
マト 「さっすがイクミさん、何でも知ってんな!」

 コンドルの檻。
イクミ「…」
マト 「…」
イクミ「…」
マト 「…木ばっかで全然見えねぇのね」
イクミ「…うん、見えないね」

 30分後。
イクミ「…」
マト 「…イクミさん…まだ探す?」
イクミ「えっ…?あっごめん退屈しちゃった?」
マト 「あっやっそーいうんじゃなくて、ここ来てから結構たったなぁって」
イクミ「…そーだね、そろそろ行こっか」
マト 「あっや、どーしても見たいんだったら、まだ全然居たって…」
イクミ「ゴメンね…でも、もういいんだ、それに見ないほうがいいのかもしれないし」
マト 「へ、何で?」
イクミ「だって想像と違ったらショックでしょ?」
マト 「…それもそっか」
イクミ「うん、マト君行こ寒くなってきたよ」
マト 「そだね、ちょっと寒いかもな…あっ!」
イクミ「ん?」
マト 「あっやっ…何でもない、もぅ行こーよ」
イクミ「?」

 動物園外。
マト 「…イクミさんゴメン」
イクミ「えっ、どうしたのいきなり」
マト 「俺あん時コンドル見たんよ」
イクミ「えっ?」
マト 「一瞬だけ、木にとまってて、すぐどっか飛んでっちゃったんだけど…」
イクミ「な、何で…うぅん、 それよりどんなだったの!?」
マト 「…うん」
イクミ「ねえってば!それだけ教えてお願い!!」
マト 「す、すげぇカッチョ良かったよ!羽もデッカくてさぁ!」
イクミ「えぇ〜そっかぁ、カッチョ良かったかぁ」
マト 「うん」
イクミ「いいなぁ、私も見たかったなぁ」
マト 「ゴメンな、すぅ〜ぐどっか行っちってさぁ」
イクミ「うぅん、マト君が見れただけでも、良かった」
マト 「うん…だな!」
 あの時、マトが見たコンドルは痩せていて、あまりにもみすぼらしく、マトの想像とはかけ離れていた。とてもイクミには見せられない、 だからマトは黙っていた、きっとガッカリさせてしまうから…。

 イツキの家の最寄り駅
イツキ「それじゃあマト君、ここで」
マト 「…うん」
イツキ「大丈夫だよ、死ぬ時はちゃんとマト君に言うからさ」
マト 「…そっか、うん分かった」
イツキ「…どうしたの?」
マト 「えっあ、いや何でもない、じゃーな」
イツキ「うん、じゃあね」
マト 「また…またその内会いに来るかんね」
イツキ「うん、待ってるよ」

 そして二人はその日、別れた。イツキは少しだけ今日もマトを泊めようかと思ったが、常識を考えてやはり止めた。
 イツキと別れた後、マトは電話をかけた。家にではない、マトは家に帰るつもりは少しもなかった。










3.エミ編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







マト「もすもーす、ユバ?」
エミ「ユバじゃないエミだ!」
マト「ははは、久しぶり元気してた?」
エミ「元気してたじゃないよ、ずーっと連絡もないしさ、何してたの一体?」
マト「う〜ん、まぁいろいろあってよ」
エミ「いろいろねぇ」
マト「ってかさぁ、今日ってばユバちゃん暇っしょ?」
エミ「…はぁ?」
マト「ほらさぁ、土曜の夜に一人寂しく部屋に居るって、遊び盛りの女の子としてはやっぱ問題じゃんしょ?」
エミ「…そんで、何が言いたいのよ?」
マト「やっ、だからさぁ、わっかんねぇかなぁ、若さ満点の男の子が楽しい土曜日に変えてあげよぅっての」
エミ「どうせまた家出でもしたんでしょ」
マト「ちぃがぁうって、だからぁ…」
エミ「素直に泊めてって言え!」
マト「ややっ、そんなんじゃ俺まるでヒモみてぇじゃねーかい!」

 マトとエミは一年前の夏に知り合った。その時やはりマトは家出をしていて駅前の路上に寝泊まりしていた。
一年前、駅前の路上。
マト「おっちゃん今日は稼げたかぁ?」
外人「オーマト、またコッチ(路上)に戻ってきたらしいね」
マト「まぁね、んで稼げたの?」
外人「ぜーんぜん、立ち止まる人すらいなかったよ」
マト「んだよ、やっぱりかぁ〜、おっちゃんへたくそだもんなぁ」
外人「そんな事ないよー、この前だってワタシの演奏聴いて泣いてた人いたね」
マト「ひどすぎて?」
外人「ちがーうーよー、そんな事より、またこの辺で寝泊まりするのかい?」
マト「まぁねー、また世話んなるよ、おっちゃん」
外人「別にいいんだけどね、マト帰れる家があるんならちゃんと帰るんだよ、どんな親だって心配はするんだよ」
マト「…どうだろな」
 エミはその頃、大学一年生だった。最初は恐ろしくてたまらなかった一人暮らしもだいぶ慣れ、エンジョイまではいかないものの、それなりの大学生活を送っていた。しかしその日、エミはずっと考え事をしていた。
大学。
ミイナ「エミーおはよー」
エミ 「…」
ミイナ「…エミ?」
エミ 「…」
ミイナ「エミィーッ!!」
エミ 「うわぁ!な、ななな…何?」
ミイナ「おはよ」
エミ 「…おはよ」
ミイナ「それで、何を考えごとしてたの?」
エミ 「えぇっ!?」
ミイナ「エミは考え込むと、考える以外の行動が停止するからね」
エミ 「そ、そぅ?」
ミイナ「うん、その辺の困ったちゃん加減がかわいい」
エミ 「困ったちゃんって…」
ミイナ「それで、何があったの?」
エミ 「何があったってゆーかぁ…まぁ何もないんだけどね」
ミイナ「…は?」
エミ 「いやぁねぇ、私の住んでるとこの駅に最近ね、ホームレスってゆーかぁ、家出少年がいるんだよ」
ミイナ「はぁ…」
エミ 「それでぇ、まぁ何てゆーか、どーしたのかなぁって」
ミイナ「…それで?」
エミ 「えぇっ!…それでって?」
ミイナ「だって、そんなんエミが悩むとこじゃないじゃん」
エミ 「ま、まぁそーなんだけど…」
ミイナ「とにかく、そんな変なのに関わっても良い事なんて少しもないからね」
エミ 「…うん」
 変なのに関わっても良い事などない、それはエミも十二分に解っている。いつもそうして損ばかりしてきた、悪い友達に引っかかったりゴタゴタに巻き込まれたり…。 しかしエミは放ってはおけなかった、自己満足とか綺麗事ではなくもっと純粋な、悲しい性とでも言うべき行動をエミは抑える事が出来ないのだ。それから数日が過ぎた。 相変わらずマトは路上に寝泊まりし、エミはマトのその姿を見るたびに無駄に悩んでいた。
 そしてこの日、夏にもかかわらず謎の異常気象なより気温は二十度を下回り冷たい雨が日本中に降り注いだ。 その頃マトは、二日間何も食べず、Tシャツ一枚でこの寒波に凍えていた。
駅前の路上。
マト「この地獄の大寒波を乗り切れば天国極楽南国ビーチがやって来る、むしろこの寒さは嘘だ自分が作り出したまぼろしマボちゃんだ、ちくしょうマボちゃんめ、どーせ幻ならもっと気を利かせて良いもん見せやがれってんだよ…うぅ〜さびぃぃ…」
エミ「…大丈夫?」
マト「へ…へへ、マボちゃんめなかなかどーして解ってきたじゃねーか、こーゆーんなら大歓迎だな」
エミ「ま、まぼちゃん?ってちょっと大丈夫なの!?」
マト「だ、だぁーいじょーうびゅーい…」
エミ「ちょっ!スゴイ冷えてんじゃん、チョット待っててねすぐ戻るから!!」
マト「な、ななななな何がでずがぁ…?」
 エミは大急ぎでコンビニに駆け込んだ、何か温かいものを買うために、しかしどんなに寒かろうが、季節的には夏!肉まんがなければおでんもないし、あったか〜い飲み物もホカロンもない。 あるのはアイスクリーム、フリージー、冷えピタ、貼ってあるポスターにはクールビズ。エミは大混乱のすえアイスココアを手に取り店員さんに言った。
エミ「温めて下さい!!」
店員「…はぁ」
 かなり恥ずかしがった、顔から炎が吹き上がりそうだった、エミは夏が大嫌いになった。 そしてエミはアイスココアと書かれたホットココアをマトに飲ませた。
マト「あったけぇ〜」
エミ「熱いからやけどしないようにね」
マト「大丈夫、ほとんど冷めてんよ」
エミ「…」
 エミは思った。きっとこの子は悪い人じゃないと、今まで関わってごたごたに巻き込まれた人達とは違う気がした。
マト「ねぇちゃん良い人だな、俺ここで寝泊まりしてて、親切にしてくれた女の子、ねぇちゃんが初めてだよ」
エミ「い、良い人…ってか君はこんな所で何してんの?」
マト「何って、寝泊まりだろ」
エミ「そーだけど…それはそーだけど何てゆーかぁ」
マト「家出だに」
エミ「…家出…か、やっぱり」
マト「そりゃあ、やっぱ今どきみなしごハッチなんかいないっしょ」
エミ「家には帰らないの?」
マト「当分はね」
エミ「…ねぇ、家出するってやっぱり親を困らせてやろうとかウザイみたいな感じでするの?」
マト「違うな俺は、うん、違う違う」
エミ「じゃー何で?…外が好きとか?」
マト「外が好き?…う〜んまぁ好きだな、うん好き好き!ダチなんかもいるし」
エミ「それじゃあ今日くらい家に泊めてもらえないの?」
マト「ダメだな、俺のダチはみんな家ねぇんだわ…」
エミ「…ホームレスってこと?」
マト「…うん、だな」
エミ「そっか、…私はそろそろ帰るね」
マト「おう!ありがとな」
エミ「これからどんどん寒くなるみたいだけど、大丈夫?」
マト「だいじょーび!なんとかなんよ」
エミ「そっか、うんまたね」
マト「またに〜」
 エミは1日くらい泊めてあげようかとも思ったが、当然やめた。それからというもの、エミはたまにおにぎりなどの簡単な食べ物をマトに届けたりした。 その姿はまさに「君はペット 」と言った感じだった。エミは思う、犬か猫かっていったら仔犬っぽいな。そしてマトも思う、これはヒモ…なのか?

 あれからまた二週間がたち、夏も確実に終わりに向かい始めたある日、二人にちょっとした事件が起きた。
 その日、エミは生まれて初めて成功した牛肉コロッケと、 実家から送られてきたエミの大好物である湯葉をマトに食べさせようと駅前に行った。マトはこの時間、いつも路上ミュージシャンの歌を聴くために駅前にいるのだ。 この日も、三組ほどの路上ミュージシャンがいた、しかし何故かマトの姿はない。エミは何故かとても不安になった、あらゆる予感が頭をよぎる。 警察に捕まった、それならまだ良い、この間、中学生がホームレスを殺したってニュースでやっていた。マトだってホームレスなのだ。外見だってヒョロヒョロしてて細いし、 すぐ信用して悪い人の後ついていきそうだし…。エミは頭を抱えてその場に座り込みたかった、とても正気ではいられなかった。
…しかし突然エミは冷静になった。

エミ「そっか、家…帰ったんだ…」

 言葉を口にした瞬間、エミの目から涙が溢れ出た。ポロポロ、ポロポロと涙は地面に落ちた。エミは泣き顔を隠す事も忘れ、その場で泣き続けた…。
マト「ど、どーしたんよねえちゃん!?」
エミ「っ!?」
 マトは家に帰ってはいなかった。ただ普通にいつもより遅い時間に駅前に来ただけだった。

マト「うん、うまい!コロッケうまいぞ」
エミ「ほんとに!?」
マト「マジうまいぞ、…ってかこの薄っぺらいゴムみたいなの何だ?」
エミ「…ゴムって」
マト「うへぇ〜変な味、あんま好きじゃないかも、ってか、もしかして食べ物じゃないのか?」
エミ「あー!マト何すんのよ、それは湯葉よ高いんだからね!」
マト「ゆばぁ?」
エミ「あ〜せっかく大サービスして湯葉いれてあげたのにぃ…」
マト「え、エミちゃんってば湯葉がすきなんだな」
エミ「…ねぇマト?」
マト「ん?あっ湯葉うまいよ、うんうまい!」
エミ「今日から寒くなるし、ウチきなよ」
マト「うえぇ!?…いいの?」
エミ「うん、何か心配だから」
 こうしてしばらくの間、二人は一緒に暮らすようになった。それから何故かマトはたまにエミの事をユバと呼ぶようになった。





 夏もとうとう終わりを告げ、秋が顔を出し、その秋も赤い葉を落とし、冬を迎えた。
 エミは毎日が幸せであった。たまに喧嘩もしたが、次の日まで引きずる事もなく仲直りした。毎日帰ると「おかえり」と言われ「ただいま」と答える。料理を作れば 「美味い」と言ってくれるし、怖い映画を観ても一人で夜を怯えて過ごさなくてすむ。いつも隣には明るい笑顔があった。しかし、寒さも段々とおさまり、冬の終わる 三月に入った頃、この二人の同棲生活も終わりを告げた。言い出したのは意外にもマトからだった。

 エミの部屋。
エミ「何で!?ずっとここに居ればいいじゃない!家に帰りたくないんでしょ!?」
マト「…うん」
エミ「じゃあ何で自分の家に帰るなんてゆうのよ!?…私の事キライになったの?」
マト「違う。そーゆーんじゃない、エミん事だいすきだよ」
エミ「…」
マト「…ごめん」
エミ「何で!?」
マト「何でって…うん」
エミ「わかんないよ! ……うそ…」
マト「…?」
エミ「…うん、解ってたよ……何となく」
マト「…だよね」
 ずっとエミの世話になるわけにはいかない。マトは気付いていた。エミもマトが無理している事には薄々気付いていた。ただエミはその現実を直視出来なかったのだ。
エミ「…今夜は、…今夜は送別会だね」
マト「うん…だな…」
 その晩、マトは今まで誰にも言わなかった「家出する理由」をエミに告白した。エミは全て聞いた後、「またいつでも来なね。かくまってあげるから」とだけ言い、 「へっへっへ」とマトと同じ笑い方をした。

 五日後、駅前の路上。
エミ「…」
 マトがいなくなってから、エミは夜遅くまで部屋には帰らないようになった。独りぼっちでいる部屋が悲しくて寂しくて怖くてたまらなくなった。マトとの思い出にすがる ように、エミはこの時間いつも駅前にいる。路上ミュージシャンの歌をただぼぉっと聴いている。
エミ「…そろそろ帰ろっかな…」
 誰もいない部屋に帰ろうとした、その時だった、交差点の向こう側に、こっちを見て笑ってるあざだらけの少年にエミは気づいた。
エミ「…マト?」
マト「へっへっへっ、エミーッ驚いたっしょー!!」
 その駅とマトの家は、案外近い場所にあった。
マト「…」
エミ「…そのアザ」
マト「ん?」
エミ「そのアザは父親にやられたの?」
マト「うぅん、これは母ちゃんだな」
エミ「…そっか」
マト「うん、…またそのうち遊び行くからさ」
エミ「うん、待ってるよ」
 そうやって、マトは一時家に戻った。そしてまた何度目かの家出をし、イクミに出会い、現在にいたる。










4.デート編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







 イクミの部屋。
 マトがいたのはたった一日だけであったが、そのマトがいなくなったイクミの部屋は、なんだかとても静かだった。しかしその静寂を、いつもは全く鳴らないイ クミの携帯電話が掻き消した。
 ピリリ、ピリリリ、ピリリリ…。
イクミ「…」
 着信を見たイクミは複雑な顔をする。
 ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ…。
 イクミは出ようか迷っている。携帯電話はただひたすら結論を急かす…。
イクミ「…」
 ピリリ…ピッ。
イクミ「…もしもし」
男の声「イクミ?この前は悪かったな、子どもが急に熱だしちゃってさ」
イクミ「…いえ、それで娘さんは?」
男の声「あぁ、結局は女房の早とちりで何でもなかったんだけどな」
イクミ「…そうですか、良かった」
男の声「それで今日は女房と子どもは温泉行ってていないんだけど、今から会えないか?」
イクミ「…はい」

 イクミは風邪をひいて遠足に行けなかった日以来、ひたすら勉強をするようになった。誰かより劣っている自分を許せず、誰かより弱い自分が許せず、誰かより 惨めな自分が許せず、ひたすらに勉強した。ふざけて笑っている同級生の男子、オシャレをしている同級生の女子、偉いと褒める教師、勉強ができて羨ましいと言う人達、 全てを憎んでひたすら勉強した。周りの全てを遠ざけ、感情を拒絶し、甘えの一切を捨てひたすら…ただひたすら勉強した。

 エミの部屋・玄関前
マト「オッス!久し振りだな」
エミ「…」
マト「んじゃあ、とりあえずお邪魔し…」
エミ「いれない」
マト「へ?…ユバなに怒ってんだ?」
エミ「ユバじゃないエミだ」
マト「…エミなげにそんな怒ってんだ?」
エミ「何で今日まで一度も連絡くれなかったのよ!!」
マト「えっ…やっ、だって…」
エミ「だって何っ!?マトは私を一人にしたって全然どーでもいーんだね!!」
マト「うえぇっ、そんな訳ないっしょ!」
エミ「じゃあ何で連絡くれないのよ?駅前にも最近あんまりいないしさぁ、スゴイ心配したんだからねぇ…」
マト「…」
 マトはエミの部屋に行く事に後ろめたさを感じていた。決してイクミの部屋に泊まったからではなく、もっと以前、おそらくマトがエミに家に戻ると言った頃 から…。
 何故マトはエミに後ろめたさを感じるのか、それはエミにとってマトは恋人だが、マトにとってエミという存在は仲間だったからだった。マトはとぼけている が、自分達がそういう関係になっていることに気付いていない訳ではない。
 そしてもう一つ、マトは束縛を極端に嫌っている。エミはいつからかマトに口うるさくなった、エミの寂しがりな性格が結果的にマトを束縛したのだ。エミは 自分がマトを束縛していると解っているし、それによってマトが息苦しさを感じているのを知っている。全て解ってはいるものの、気持ちを押し殺せない、大嫌 いな自分を責める事が出来ずマトに当たってしまうのだった。

エミ「ごめんなさい…、入っていーよ」
マト「…おう」




 二日目。
カツヤ「イクミさんゴメンね、いきなり呼び出しちゃって」
イクミ「いえ…、それで何か?」
カツヤ「あ〜…いや、別にこれって理由はないんだけど…、天気もいいしって思って…ゴメン迷惑だった?」
イクミ「えっ、いや、どうせ暇だったし、その…すいません」
カツヤ「そっか、なら良かった」
イクミ「…はぃ」
カツヤ「それじゃあ、何処いこっか?映画とかなにか観たいのある?」
イクミ「えっ…と」
カツヤ「…って、ゴメンね、何もプラン決めてないのに誘って…」
イクミ「いえ、そんな…」
カツヤ「とりあえず映画館のぞいてみよっか」
イクミ「は、はい」

 イクミとカツヤが出会ったのは二ヶ月前のことだった。
 イクミはその日、同僚の誘いを断りきれず、合コンに行くことになった。しかし、合コンの空気に馴染めないイクミは見事に浮いた存在となってしまった。そ んな時、声をかけてきたのが、同じく空気に馴染めず困っていたカツヤだった。
 イクミが感じたカツヤの第一印象は、頑張って髪型も服装もオシャレに決めてはいるものの、無理しているためどうしても馴染んでいない。恐らく誰が見 ても第一印象は同じはずである。
 しかし、少なくともその時は二人とも同じ境遇であり、互いに同じ匂いを感じて、隣同士に座り決して盛り上がることのない会話で時間を潰した。そして合 コン後、気を利かせたつもりの幹事が勝手にイクミの携帯番号をカツヤに教えたのであった。

カツヤ「バッグ…重くない?その、え〜っと…持とうか?」
イクミ「大丈夫です」
カツヤ「そっか、…うん解った」
 カツヤがお人好しで、悪い人でないことは解っている。しかし、イクミは何故カツヤが自分と関わろうとするのか理解できずにいた。マトなら解る、あの性格だし、 ましてあんな場面を目撃して、「ハッピーにしてやる」などと言い出したのだから…。とにかくイクミはカツヤの気持ちにまだ気付かずにいた。

 エミの部屋。
エミ「マト〜、ねぇってば!マート!!」
マト「…んが?…あ〜う〜、も…モーニンぐっ…ちょ…」
エミ「もぅお昼だよ、ご飯できてるから起きてってば」
マト「う〜ん、湯葉はもぅいやぁ…」
エミ「誰がそんなもん食べさせるか!」
 ドカッ!
マト「むぎゃっ!?」
エミ「今日は超カラッカラに晴れてるから、お出かけしよ」
マト「う〜、天気ってば、気まぐれのひねくれ者だよな、俺が元気だとドヨドヨ曇るくせして、俺がだるだるだとカッ…と晴れんだ…ぐぅ…」
エミ「起きろっ!!」

 イクミは文字通りの身を削る猛勉強の末、高校、大学と学費を免除して進学した。皮肉な事に、自分を痛めつけ、全てを忘れる為に行った自傷行為のような勉 強のお陰で自分の身体ではなく、未来を切り開いてしまったのだった。しかし、それでもなお全身に刻み込まれた劣等感を無くす事は出来なかった。
イクミはある時、ふと思う。自分は親が死にでもしない限り、救われない…と。

 日曜日の街は、見事に人混みで溢れかえっていた。
マト「なぁなぁエミー、アイス食べたくないアイスクリーニング!?」
エミ「食べたくない」
マト「うえぇ〜何でぇ〜?あっ、さてはダイエットだな!エミはダイエッターだな!」
エミ「声がデカい!!いいでしょ何だって、気分じゃないの!」
マト「ブゥ〜、…軽くヤバいの?」
エミ「いっぺん死ね!!」
露天商「マト?…おいマト!!」
マト 「っ!?ややっ、ジャンじゃん!おめぇジャンじゃんさ!いつこっち帰ったんよ!?」
エミ 「…誰?」
ジャン「三日前にな、それより何だ彼女連れか!?」
マト 「…おぅ、ユバだ!」
ジャン「ゆばぁ?」
エミ 「エミです」
ジャン「エミちゃんか、宜しくね、俺の名前はジャン」
エミ 「ジャン…さん」
 ジャンと名乗るその露天商は、どう見ても日本人だった。日本語の発音さえも完璧であった。
マト 「あぁ、こいつジャンとか言ってっけど、完全に日本人だかんね」
エミ 「へ?」
ジャン「ある人から、名前をもらったんだよ」
マト 「カッコつけてんだしょ?」
ジャン「うっさい!」
 ジャンは路上でシルバーアクセサリーを売っていた。物価の安い国で大量に商品を仕入れ、日本に持ち帰って売る、そんな事を何年も繰り返しているのだった。
マト 「なぁジャン、コンドルのアクセってあったりするん?」
エミ 「コンドル?」
ジャン「コンドルか?ん〜っと、これなんか確かコンドルだったよーな…」
マト 「おぉ、なんかスッゲェなカッチョいーな!まさにカッチョーカーだな」
ジャン「だろっ!カッチョーカーだろっ!」
エミ 「…」
マト 「でも、コンドルはそんなカッチョ良くなかったぞ?」
ジャン「…」
エミ 「ねぇマト、コンドルなんて見たことあるの?」
マト 「まーな!」
エミ 「…ふぅん」
マト 「まーいーや、ジャンこれもらってくな!!」
 マト、走り去る。
エミ 「あっマト!?」
ジャン「おいっ!ち、ちょっとー!!」






 コンドルを象ったらしいそのチョーカーは、マトが見た不細工な動物園のコンドルとは全く違い、力強くてキレイで格好良かった。巨大な翼を目一杯に広げ、 天を切り裂き遥か彼方まで飛んでいけそうな…そう、それはイクミが思い描き、マトが理想とした姿であった。

イクミ「・・・」
カツヤ「・・・」

 主要人物意外、全員幸せな終わり方をしない恋愛映画を観終えたイクミとカツヤは、喫茶店で一息ついていた。
イクミ「…」
カツヤ「…い、良い映画だったね」
 もちろんカツヤは全くその映画に満足していなかった。
 一応カツヤの同僚の女の子からオススメされた映画だったのだが、上辺だけのハッピーエンドに、もともと映画にはうるさいカツヤは何とも言えない後味の悪 さを感じた。しかし、それでもやはり「最低の映画だったね!」とは言えるはずもなかった。
イクミ「う、うん」
 それはイクミも同じ感想だった。
カツヤ「…本当に?」
イクミ「ん、本当にって?」
 イクミの行動、表情、仕草、声、間…全てに全神経を集中していたカツヤは気付いた。イクミがあの映画に全く満足などしてはいない!…と。
カツヤ「び…」
イクミ「…び?」
カツヤ「微妙だった…よね?」
イクミ「…」
カツヤ「…、ゴメン!俺から誘ったのにホントごめんなさい!!冗談っ、全部じょーだんだからっ!」
イクミ「…ちょっと」
カツヤ「…え?」
イクミ「ち、ちょっとだけ…思ったかも…」
カツヤ「…だよねぇっ!!」
イクミ「う、うん」
 カツヤは初めてイクミと心が通じた気がして、舞い上がった。カツヤは思った、今だったらヘレンの目も耳だって治せる、インポッシブルなミッションなど俺 にはない!T1000の三体くらいなら素手でスクラップ工場に送ってやる!トニー・ジャー…かかって来いや!!
イクミ「…カツヤさん?」
カツヤ「いやぁ、ホントそぅ思うよねぇ!…って、俺が観ようって言ったんだよね、…でもイクミさんも同じ感想で良かったよ!」
イクミ「…うん、だねっ」
 一生懸命に話しを盛り上げようとするカツヤは、イクミの目から見て、かなり痛々しかった。それを今までイクミは申し訳なく思っていた。しかし、イクミと 意見が合ったことで、いま初めてカツヤは嬉しそうな顔をしている。それを見てイクミもチョットだけ嬉しかった。

 夜、エミの部屋。
マト「う〜ん、今日はいっぱい歩いたな」
エミ「何言ってんの、けっきょく家出たの夕方くらいだったじゃん」
マト「そっかぁ?まぁいーや、エミ明日学校だしょ、まだ寝ないでへーきなん?」
エミ「うぅんもう寝るよマトは?まだ寝ないの?」
マト「これからち〜っとばっか、行くとこあんだよね」
エミ「…こんな時間にどこ行くの?」
マト「ん?…ん〜ちょっとな」
エミ「ちょっとってどこよ?」
マト「ほんの一時間くらいで帰ってくっからよ、心配すんなって」
エミ「…ホントに?絶対だよ、寝ないでずっと待ってるからね!」
マト「解ってるって、絶対ぜぇ〜ったいちゃんと戻るから」
エミ「…解った」
 エミの本当の気持ちは、マトを一人で出掛けさせたくなかった。しかし、強情を張るとマトがいなくなってしまいそうで恐い。だから出掛ける理由すらちゃん と聞けなかった。

 駅。
イクミ「この辺で大丈夫、送ってくれて有難う」
カツヤ「うん、今日はホント楽しかったよ、今度はちゃんと俺のお薦め映画しょうかいするからさ」
イクミ「うん、帰り道きをつけてね」
カツヤ「ハハハ、イクミさんもね」
イクミ「うん、また…今度、私も面白そうな映画探しておくから、バイバイ」
 カツヤが映画好きだと知って、何故かイクミはカツヤに対し親しみを感じた。別にイクミは趣味にするほど映画が好きなわけではない、むしろ観ない方かもし れない。しかし、熱心に映画について語るカツヤを見ていると、とても楽しい気持ちになった。カツヤと一緒にいて、初めて居心地の良さを感じた。

 イクミの部屋。
マト 「お帰んなさいイクミさん!」
イクミ「マト君!どーしたのいきなり?」
マト 「へっへっへ、コレ俺からイクミさんにプレゼント!」
イクミ「ん?…何これ?」
マト 「カッチョイイっしょ?コンドルだい!」
イクミ「っ!…うんかっこいいね、でもどーしたのこれ?」
マト 「ジャンって友達のお土産、これでイクミさんどっから飛び降りたってさ、コイツがビューンって飛んできて、助けてくれたりしてな!」
イクミ「…そっか、うんマト君有難う」
マト 「あぁ〜っと、ヤバッそろそろ帰んなきゃだから、イクミさんも明日は仕事っしょ、寝なきゃ大変よ!じゃねっ」

イクミ「…ありがと、…ケン」
 走り去っていくマトの後ろ姿を見て、イクミは小さな声で言った。とても小さな、誰にも聞こえない声で…。










5.イクミの初恋編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







 ピリ…ピリリリリ!
イクミ「っ!?」
 ピリリ、ピッ!
イクミ「…」
電話の声「…イクミさん?」
イクミ「カツヤ君?」
カツヤ「もしもし、ゴメンねいきなり電話して、ちゃんと家に着いたかなぁって思って」
イクミ「うん、ちゃんと着けたよ」
カツヤ「そっか…、うん、まぁそれなら安心したよ」
イクミ「うん…」
カツヤ「うん…、ま、まぁそれだけなんだけど…」
イクミ「そっか、有難う」
カツヤ「…うん、そ…それじゃあ…」
イクミ「ねぇ、カツヤ君」
カツヤ「ん!?」
イクミ「変な…変なこと聞いてもいいかな?」
カツヤ「な、何?」
イクミ「高校…高校って、どんな感じだったのかな…て?」
カツヤ「高校?…う〜ん、どんなって言われてもなぁ…、まぁ楽しかったよ、厳しいとこだったけど、イクミさんは?イクミさんは制服姿もきっと可愛かったんだろーね!」
イクミ「…あのね、こんなこといって嫌に思わないでほしいんだけど…」
カツヤ「ん?どーしたの?」
イクミ「私ね…高校…行ってないんだ…」

 イクミは人と親しくなった時、もしくは親しくなりそうな時、高校に行かなかったと嘘をつく。
 それは変な話しだが、嫌われる事への恐怖が、本能的にそうさせるのと、イクミがまだ高校に通っていた時の頃に理由がある。

 イクミは高校生の時、同級生からマネキンと呼ばれていた。誰とも会話せず、学校が始まってから終わるまで、じっと自分の席に座り続けるその姿は、まさに マネキンという名がピッタリだった。
 しかし、そんなイクミも一年生の時、同じ特進クラスの男子に恋をする。それはひたすらに孤独であり続けたイクミにとって初恋となった。
 きっかけとなったのは、ある日イクミが教室で筆箱を机から落とし、中身をぶちまけてしまった時だった。
 その男は無言でイクミが落とした筆記用具を拾うと、少しだけ微笑みかけ、イクミの机に置いた。それだけと言えば、それだけの事だった。 しかしイクミにとって、それは驚くべき出来事だったのだ。それ以来、 教室で彼を見る事がイクミの生きがいになった。彼の声を聞くだけで楽しい気持ちになり、彼と目が合った時など心臓が爆発しそうになった。それくらい彼が好 きだった。
 しかしそれだけだった、同じクラスの女子とすら、ろくに会話した事などなかったイクミである。告白はおろか、バレンタインにチョコレートを渡す 事すらも出来なかった。もちろんチョコレートだけは用意したのだ、学校にも持っていった、隙を見て彼の机の中にでも入れておこうと思っていた。しかし勇気 がなかった。もしイクミにチョコレートを渡す勇気の半分でもあったなら、おそらく立派なストーカーになっていた事だろう。そのまま持って帰ってきたチョコ レートをイクミはゴミ箱に捨て、こんなもの私には必要ない、イクミは自分にそう言い聞かせた。
 そんな事を毎年繰り返し、ついには卒業式を迎えた。彼は遠い地方の大学に行ってしまう、イクミは最後くらい自分の気持ちを伝えようと思っていた。卒業式 が終わり、教室で卒業アルバムに添え書きをしあう生徒たちもだんだんと減って、遂に彼とその友人達が数人残るだけとなった。イクミは教室の外で彼が出てく るのをひたすらコソコソと待ち続けていたが、ふと様子が気になり教室を覗いた。
彼 「マジさぁ、あのマネキン女いっつも俺の事ジロジロ見やがってよ、三年間ほんきウザかったよ」
男子「ハハハ、オメェも変なのに好かれたよな、今もどっかから覗いてるかもしんねーぞ」
彼 「ハッ、マジ無理!ほんと覗き料はらえっつーの」
 バシッ!…。
 彼 「痛ぇっ!?」
 男子「っ!?」
イクミ「…」
 イクミは彼に財布を投げつけ、無言で立ち去った。泣くものか、あんな奴の言葉でなど泣いてやるものか、あんな奴に…。部屋に帰ると、布団にうずくまり遂 に泣いた。遠足に行かれなかった、あの日のように。
 泣き終えると、イクミは高校での三年間を消去した。イクミにとって、あの男が全てだった三年間をアルバム、教科書、鞄、そして学生服と一緒に燃やし、灰にした。
 後日、彼に投げつけた財布が学校から届けられた。中身の紙幣は全て抜き取られていた。

カツヤ「へぇ、そーなんだ」
イクミ「…うん」
カツヤ「…」
イクミ「…そ、それだけ?」
カツヤ「えっ、…それだけって?」
イクミ「あっ、いや…、もっと驚くかなぁって…」
カツヤ「あっ…ゴメン、そーだよね、驚いた方が良かった…よね」
イクミ「うぅん、私も変なこと言っちゃったね、ゴメン」
カツヤ「いや、嬉しかったよ、…イクミさんが、自分のことを話してくれて」
イクミ「嬉しかったって…?」
カツヤ「だって、今まであんまりイクミさんそーゆう自分のこと、話さなかったじゃん」
イクミ「そぅ?…そっか、ゴメンね、こーゆーの苦手で…」
カツヤ「あっ、やっ、別に…ゴメン」
イクミ「…ふふふ」
 イクミ、突然笑い出す。
カツヤ「ん、どーしたの?」
イクミ「私達、謝ってばっかだね」
カツヤ「あ、ハハッ、そーいやぁそーだ!」


 その頃、マトはエミの所には戻らずに、ジャンと会っていた。
マト 「おぃっす、ジャン」
ジャン「おぅ、なんだマト、こんな時間にどーしたよ?」
マト 「んや別に、何もねぇけどさ」
ジャン「…んだぁそりゃ、ってかオイ、あのチョーカー返しやがれ!」
マト 「な、何言ってんだあれはお土産っしょ?返すもなにもねぇべさ!!」
ジャン「ざっけんな!ありゃあ違うっつーの、ってかあのチョーカーは売り物ですらねぇんだよ!!」
マト 「んなぁ!じ、じゃーよ何で、コンドルのアクセねーか聞いた時にあれ出したんよ!?」
ジャン「…、もちろん自慢する為にきまってんだろ!」
マト 「んなぁっ…!?そーだったのか…」
ジャン「そーゆーこった、解ったらさっさと返せ」
マト 「…ない」
ジャン「あぁっ!?てめぇで持って行って、ねぇじゃねえだろ!」
マト 「あげちゃった」
ジャン「あ…あげただぁ!?」
マト 「ジャン、すまんね」
ジャン「…なんてこった」
マト 「そ、そんな落ち込むなって!ジャンはそんなけちんぼな奴じゃねーだろ」
ジャン「…はぁ」
マト 「…」
ジャン「…こんなもんか…最後なんて…」
マト 「んぁ?何か言ったか?」
ジャン「あのチョーカーはな、願掛けみたいなもんだったのよ、俺の」
マト 「が、願掛け…」
ジャン「ずぅーっと昔な、大好きだった娘がいたんだけどよ、いつかその娘にあのチョーカーを渡そうって思ってたわけよ」
マト 「そ、そぅだったんか…」
ジャン「まぁ、渡せないって解ってたしな」
マト 「ん、何でさ?」
ジャン「何処にいんのか知らねえもんさ」
マト 「ふぅ〜ん、そっかい」
ジャン「ただよぉ…」
マト 「ただ、何さ?」
ジャン「…何でもねぇ、何でも…」
マト 「…そっかい」
ジャン「…そんで、何か用か?」
マト 「んあ?だ、だから別にようなんかねぇって…」
ジャン「嘘つけ、何かあんだろ」
マト 「…その、お土産を…みたいな」
ジャン「はぁ…ったくよぉ」
マト 「へっへっへ」
ジャン「…んで、何が欲しいんだよ?」
マト 「わりぃね、ジャン!」
ジャン「うぜぇ」

 マトがエミの部屋に帰ると、やはりエミはテーブルで寝てしまっていた。携帯を手に持ったまま、頬には涙の後が線になって残っていた。
マト「…」





 その日、イクミは夢を見た。真っ白な世界で、イクミは一人で立っている。見上げると、翼の生えた人間が空を飛んでいた。しかし決して気持ち良さそうには 飛んでいない。まるでプールに放り込まれた子供が、必死になって水面を目指してもがいているような、その翼の生えた人は、翼と一緒に手足をばたつかせ、が むしゃらに空中を漂っていた。
 じっと、その姿を見ていたイクミは、翼の生えた人はマトのような気がしてくる。が、突然なぜかカツヤだと思い始める。確かめるため、イクミも空へ飛ぼうと するが、翼を持たないイクミは当然、飛ぶことができない。イクミはただ空を見上げたまま、翼の生えたマトかも、カツヤかもしれないその人を見続ける。
 すると、力尽きたのか翼の生えた人は墜落してきた。だんだん、だんだんとイクミに向かって真っ直ぐに落ちてくる。イクミは両手を広げ、落ちてくるのを待つ。
 後、100メートル
 後、90
 後、80
 70、60、50…
 距離が近づくにつれ、スピードが加速し、二人の距離は急速に近付く。
イクミ「…」
 彼はマトでもカツヤでもなく…、あの男だった。…否、あの二人の内のどちらかだった。

 …リ…リリ……。
イクミ「…」
 ジリリリリリリリリリリ!!
イクミ「っ!?」
 ガチャン!!…。
イクミ「…ハァ」

 三日目。

 エミの部屋
エミ「それじゃマト、私もぅ出ちゃうからね!」
マト「…いってら…ふぁい」
エミ「マトも、もし出掛けるんだったら戸締まりちゃんとしてね、解った?それじゃいってきます!」
マト「…」
 朝のこんな些細なやりとりでさえ、マトには苦痛だった。マトは時々、エミの笑顔が恐かった。そしてエミの声が痛かった。
 自分が、見えない鎖に繋がれているような気がした。だから逃げ出した、弱いマトはけっきょく大嫌いなはずの家に逃げ出した。








6.イクミの大学編


PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  PAGE LAST







 イクミは大学生の時、その後の人生を大きく変える出会いをした。といっても、出会い方自体は決して特別なものではない。しかし、高校での苦い三年間のお かげで、ますます心を閉ざしたイクミにとって、彼との出会いは正に救いとなった。彼の名前はケン、イクミを人生で最も幸せにした男。そしてもう一人、生ま れて初めての友達ミスズ。
 イクミのとても幸せだった時。

 大学近くの喫茶店
 イクミが大学生になって二ヶ月が過ぎ、季節は梅雨となった。皆このジメジメとした時期が早く過ぎ、暑い夏を待ち望んでいる中、イクミだけは人通りの少な い梅雨がずっと続く事を願いつつ、店内の窓から強くも弱くもない、微妙な雨が降る道路を見つめていた。
イクミ「…」
 大学に入学してから一週間後、イクミはこの喫茶店を発見した。大学から三分という距離でありながら、学生が来店することは全然ない。というか、客自体がほ とんどいなかった。
店長「イクミちゃんやぃ、今日はもぅ客来ねぇだろぅから、上がっちゃっていぃよ〜」
 店長はコーヒーを煎れるよりも料理が得意、だが一番自信があるのは茶碗拭きという六十八歳の老人男性だった。
イクミ「いえ…まだ、もう少しダメですか?」
 1ヶ月前にイクミは店長に勧められ、この喫茶店でアルバイトを始めた。授業の合間にいつも一人で店内に居るイクミに、店長は興味を持ったのだ。イクミに とって、生まれて初めての接客するアルバイトだった。
店長「そっかぃ、それじゃあコーヒーでも煎れてやろぅ、座ってなイクミちゃん」
イクミ「あ…、すいません…」
 イクミ、カウンター席に着く。
 …ザアァァァ…。
イクミ「…」
店長「雨ぇ、強くなってぇきたねぇ」
イクミ「…ですね」
 この空を覆う雨雲は私だ。と、イクミは思った。
 たとえ雨を降らさなくても、ただあるだけで気分を落ち込ませ、陰鬱で、暗い…。雨や湿気は私が放つ負のオーラ。
 その時、窓の向こうで傘を差さずに走り抜ける数人の若者を見付けた。たぶんイクミと同じ大学の学生だろう、何かのサークル仲間達だろうか、みんな楽しそ うにはしゃいでいた。…こんなものだ、憂鬱な雨雲も陰鬱な私も、その程度の存在なのだ。
店長「はい、イクミちゃんコーヒー入ったぃ」
イクミ「あっ、ありが…」
 ガチャッカラカラ〜ン…。
イクミ・店長「!?」
客「あの〜、まだやってますか?」
 客が来た!!それは梅雨入り以降ただの一人としてお客さんのこなかった店にとって、奇跡であった。その驚きは、数秒の間ふたりを固まらせた。
客「…あの?」
イクミ「い、いらっしゃいませ」
店長「…」
 店長に関しては入れ歯がズレたことにも気付かずに立ち尽くしていた。
 お客はイクミがさっきまで座っていた席の隣のカウンター席に座り、イクミにカフェラテを注文した。
客「…すごい雨ですねぇ」
イクミ「…、えっ、あっ…はぁ」
 これがイクミの初めての客との会話になった。今までは基本的に客と会話するのは店長の役目だったが、その店長は今、客が来たことに驚き放心状態となっ てしまっていた。
イクミ「ど、どうぞ」
 イクミは緊張でガチガチになりながら、やっとの思いでカフェオレを客に出した。その時にイクミはふと、客の顔をチラリと見た。客はイクミと同い年くらい の女の子だったが、彼女の服装はイクミと全然違っていた。化粧をし、髪をカラーし、オシャレな服を着ている、それは正に今時の女の子だった。
客「ありがと」
 無愛想な店員のイクミに対し、この客はとても自然な愛想の良い笑顔で礼を言った。その笑顔を見たイクミは思う、この人は私の百倍は幸せな人生を歩んでい るのだろうと。
 三十分後、相変わらず曇ってはいたが、雨が止んだ為、客は帰って行った。帰り際、客はイクミに笑顔で言った。
客「ごちそうさま、またね」
イクミ「えっ…?あ、ありが…」
 客の姿はもうなかった。
イクミ「…またね?」
 その後、お店を出るために後片付けをしている時、イクミはさっきの客が誰かを思い出した。それは…

 翌日、大学の教室。
「おはよー」
イクミ「…」
「ねぇっ、おはよってば」
イクミ「…」
「…カフェオレ」
イクミ「っ!?」
客「おはよ、昨日はどーもね」
イクミ「…おはよ…」
 彼女は同じ大学の同級生だったのだ。
客「アタシはミスズってーの、よろしくね」
イクミ「…はぁ」
ミスズ「昨日はホント、超ぐーぜんだったね」
イクミ「…ですね」
ミスズ「イクミちゃんは、ずっとあそこでバイトしてんの?」
イクミ「ちゃん!?って、なんで名前…?」
ミスズ「ずーっと気になってたのよ、イクミちゃんのこと!やっと話せたねぇ」
イクミ「…」
 ミスズはイクミが最も苦手なタイプの人間だった。今までにもミスズと同じように話しかけてくる人は何人かいた。イクミはそのたびに少しだけ辛い気持ちに なる。緊張し、喉が詰まって何も話せなくなり、結局その人達は会話にいき詰まり、どこかへ行ってしまう。イクミはそれが嫌だった。しかし、このミスズとい う女は、今までの人とは違っていた。まず彼女自身があまり友達がいないようだった、とゆうか、必要としていなかったのだ。

 あれからミスズはよくイクミのバイト先に顔を出すようになった。

 喫茶店。
ミスズ「いっくみぃーっ!来たよー!」
イクミ「…」
店長「おっ、ミスズちゃんじゃなぃ、いらっしゃ〜ぃ」
ミスズ「おっちゃ〜ん!こんちわ〜」
店長「もぅ、今日も可愛ぃねぇ〜」
ミスズ「やめてっ、誉められると本気なっちゃうから!」
 だが、ミスズが来て喜んでいるのは明らかに店長の方だった。晴れでも空いてるのに、梅雨の雨で店内ガラガラで湿気がこもった喫茶店に客が、しかも若い女 子大生ともなれば、妻に先立たれた店長のテンションは上がりっぱなしであった。
ミスズ「ねぇそーいえばなんだけど、今度の学祭でやるクラスの出し物のミーティングってか、飲み会あるんだけどイクミは来る?」
イクミ「行かない」
ミスズ「そっ、まぁアタシも行かんし別にいーんだけどね」
イクミ「…」
 なぜミスズがイクミに近付いて来ようとするのか、イクミは理解できずに戸惑っていた。というより、ミスズの存在そのものがイクミには不思議でならなかっ たのだ。
 それは、ミスズはかなり明るい性格だが、決して誰かと深く関わろうとはしなかったからだった。
 もちろんミスズはイクミと違い、誰とでもすぐ打ち解けられるし、クラスでも皆の人気者である。しかし、彼女はどこかで周りとは一線を引いていた。ミスズ の大学以外での行動と、実は周りと距離を置いていることを知っているのは、クラスでイクミだけだった。
 そんなミスズが、何故かイクミに対しては明らかに特別だった。
 最初イクミはただの自己満足で話し掛けてきているのだろうと思っていたが、それも何だか違うような気がしていた。というのも、イクミはそういう人は「私 は友達がいっぱいいて幸せだから、あの人にもその幸せを実感させてあげよう」と、考えている人か、寂しい人だと思っていたからだ。 しかし、それならば友達がいそうだがいないミスズはイクミと仲良くなる必要がなかった。もちろん寂しい感じでもない、イクミにとってミスズは正に未知の 存在であり、イクミはそんな彼女を近付きも突き放しもできずただ戸惑っていた。
ミスズ「あーっと、そーだ!飲み会なんてどーでもいーんだ。ねぇ梅雨も空けっから、水着買いいこ!」
イクミ「…水着?」
ミスズ「うん、なんかこぅ鼻血でちゃいそうなやつ、えっそんなサービスしちゃう!?みたいなやつ!」
イクミ「…」
ミスズ「あっ、…別にイクミはそんなサービスしなくていいんだよ。イクミの分アタシがサービスすっからって、別に誰にサービスしたいわけでも…何いってん だアタシ…?」
イクミ「…いいよ、行こうよ今度」
ミスズ「オッケ、決まりだからね!」
 戸惑いながらもイクミは確実にミスズによって変わりつつあった。何重にも重なり、グルグルに巻き付いて分厚くなったテープを、一枚一枚丁寧に剥がすよう に、彼女はイクミの笑顔を少しずつ増やしていった。





店員 「もしも〜し、ちゃんと聞こえになれますか?」
イクミ「えっあっ…はい、もしもし」
店員 「はい、それではこちらがお客様の携帯電話になりますが、宜しいですね?」
イクミ「あっ、えっと…はい」
店員 「ありがとう御座いました〜」
 イクミはミスズに言われ、遂に携帯電話を買った。ただそれだけと言えばそれだけの事だったが、イクミにとってそれは大冒険と言っても決して大袈裟になら ないくらいにドキドキの出来事であった。雛鳥が初めて空に飛び出すような、胎児が母親の身体から離れ初めて自ら呼吸をした時のような、イクミは携帯電話を 持ったことでまるで自分が生まれ変わり、同時に世界も生まれ変わったような…いくら例えてもキリがない強烈な新鮮さを全身に感じた。











■■ To be continued. ■■





PAGE TOP  1  2  3  4  5  6  ↓PAGE LAST
×CLOSE
HOME

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送